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Channel: 新しい「農」のかたち
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農と全人教育7~種子法廃止をめぐる議論の本質Ⅱ

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農業の進歩とは、何をもって測られるべきか?

他の産業と同様、いいものを、より早く、より安く、という外圧に晒される中で、農の本質は見失われてきた。
そして旧種子法は、農を近代化の波に巻き込む役割の一端を担ってきたと言える。

種子法廃止の是非を問う議論を越えて、農の本質的な価値を問い直す機会としたい。

 

以下、転載(種子法は、ほんとうにいい法律だったのか。 著:宇根 豊)

■農業の進歩とは?
種子は自家採種するよりも、購入した方がいい理由とは、(1)プロの採種百姓が原種を混ざらないように栽培して、いい品質の種子を生産してくれるから。(2)購入した方が楽で、むしろ安いから。(3)購入種子で、素性が知れた奨励品種であれば、米が売りやすいから。(4)苗も買っているので、購入種子にならざるをえない、というようなものであろう。
もっともな理由のような気がするだろう。これを、意地悪く表現するなら、(1)もともと自家採種していた仕事を失うことに無頓着で、(2)種子の自給など時代遅れで、外注する(分業する)のは他産業では当たり前だからという思想に染まって、(3)「自家採種」ではブランドにならないと思い込み、(4)苗も自給しなくて外注しているのだから、採種はなおさら外注すべきだろう、となる。

安倍政権は「働き方改革」をすすめている。当然ながら農水省も「働き方改革」の指針を示している。それによると「他産業並みの労働を目指すんだ」と言う。そのためには「農業は特別だ」という考え方・感覚を捨てなさい、と言っている。そうなんだ。農業も他産業の同じように、資本主義社会の中では、労働生産性を上げ、所得を上げ、豊かな富を手にし、人間の幸せを追求しなくてはならないのだ。

そのためには「仕事」を果たして他産業のように分業することが幸せに結びつくのだろうか。仕事を細切れにして、一部あるいは多くを外注することは、仕事の誇りや生き甲斐や喜びを豊かにするだろうか。遺伝子組み換え技術に賛成している人がこう書いていた。「カナダの農家にとっては、遺伝子組み換え作物を選択するか、組み換えでない作物を選択するかは、どちらを作付けした方が経営的に有利かという判断でしかない。安全性は関係ない。」
ここには、「仕事の誇り」(生態系への安全性も)という視点はまるでない。この人を責めるわけにはいかない。時代はそういう価値観で席巻されているのだから。

 

■農の近代化を奨めた種子法
>品種統一を奨める理由は、品種の数が多いと検査・保管・流通がしにくいし、奨励品種以外は、採種圃が設置できず自家採種でやるしかなく、また奨励品種以外は栽培基準が立てにくいという、行政側の都合だと思い知った。知らず知らずに品種の多様性が失われていくのは、百姓の仕事が、稲の生よりも、経済に向かうことを、この「種子法」が奨めたからだとも言えよう。

>「種子法」のもとで行政が奨める種子が、安く、安定的に供給されてきたために、皮肉なことに「自家採種」が崩壊し、品種が画一化され、見た目だけを重視する検査制度が定着してしまった。近代化とは、このように国家の強制ではなく、国民の支持の下に、(近代化への欲望を静かに確実にそそり、実現することによって)進められ、実現される。

 

■農が近代化された結末
かつて大正時代には、GDPの半分もあった農業生産額も現代では1%である。いかに本来は不要なものが(そうは感じなくなっていることは承知で言うのだが)生産、消費されているからである。これが資本主義の本質である「経済成長」の核心である。
近代化精神はことのほか「農業は食料を生産する産業である」ということを強調してきた。これは明治時代末期から、工業に対抗する思想として「工業には命の糧である食糧は生産できないだろう」という意味で、農本主義者たちが使い始めたものである。(ちなみにこの「農本」という言葉も明治時代末期に「工本」に対抗して造語された。)
たぶん現代では「農業の本質は食料の生産にある」と思っている国民が大多数だろう。これは近代化思想の典型で、結果の価値だけを強調するものだ。(農本主義の最大の失敗がここにある。)いい米を生産するなら、自家採種しようと,苗を購入しようとどちらでもいい、ということになる。いい米が生産できるなら、蛙が一匹もいない田んぼで生産されようが、生きものがいっぱい稲と一緒に生きている田んぼで育とうが、気にする国民はほとんどいなくなってしまった。これが近代化思想の怖いところである。

先の「いい米」とは、人間の、しかも現代人の誘導された好みにあった米でしかない。なぜこういう発想になってしまったのか、もう問い直す人はほとんどいない。米は人間が農業技術を行使して「つくる」という近代的な発想が、1970年代までの米は天地のめぐみとして「できる」「とれる」という感覚に置き換わったことを、もう誰も気にしない。すべての禍根はここに発している。つまり「農の本質」の大転換が、本来は変わらないから「本質」と言うのに、その変わらないはずの本質が大転換したのだ。農が資本主義化された結末がここにある。つまり経済価値で計れないものは単なる機能(たとえば多面的機能)として農から放逐され、稲や米を生きものとして、天地有情として見るまなざしを私たちは失ってきた。

 

■百姓仕事の本質を問い直す機会に
たしかに「種子法」の廃止は唐突だった。しかし、これまで「種子法」に批判的だった百姓が廃止反対を叫ぶのは、待ってほしい。「種子法」に変わる「自家採種法」「在来種保存法」「種子の多様性を守る法律」「品種に経済性を求めない法律」などを構想すべきではないか。在来種の種取りにドイツでは「環境支払い」で報いている。種とりという百姓仕事は、“いのち”をつなぐ仕事である。その仕事を外注するのは、経済のためである。“いのち”は、経済よりも軽く見られるようになってしまった。これに対抗するには、「種子法」の復活だけではどうしようもない。

私が「遺伝子組み換え作物」の作出と普及に反対するのは、人間の安全性への疑念ではない。百姓仕事の誇りと伝統を破壊するからだ。人間の欲望を鎮めることを最大の特質としてきた百姓仕事に、人間の欲望に歯止めをかけない技術を導入してはならないからだ。さらに、これまで蓄積してきた伝統的な百姓仕事の技を引き継ぎ、工夫していく楽しみを滅ぼすからだ。ゲノム編集技術も同様だ。これに生態系への脅威と不安を加えて、反対している。

私が「種子法」廃止に反対するのは、百姓仕事の大事な世界を奪ったことを全く反省することなく廃止したからである。したがって「種子法廃止反対」とは、次々に百姓仕事が他産業並みに分業化されて、誇りを経済に譲り渡していく社会のあり方を議論するきっかけにするためである。

今年もわが家の稲の花は満開の季節を迎えていた。稲の花には、蜜蜂が飛んできて、しきりに花粉を集めている。時には、田んぼの水を吸って巣に帰っていく。稲は自家受粉だから、蜜蜂の力など借りなくてもいいのに、あんなに雄蘂を長く伸ばして、見せびらかしている。たぶん、ほんのわずかでも、他の品種の花粉で交雑したいのではないのだろうか。そのために蜜蜂を呼んでいるのではないだろうか。
稲は、人間のためだけに生きているのではない。稲自身のためにも生きているのだ。そう教えてくれている。それが、自家採種という仕事では実感できる。


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